木曽の位置図木曽のデータ

 木曽の沿革
  木曽の事が歴史に初めて現れてくるのは、8世紀の初めに書かれた『続日本紀』で、古くは木曽は「岐蘇」、「吉蘇」あるいは「岐曽」と呼ばれていました。室町時代には木曽の中に「中山道」が通り、11宿が指定されたとのことです。
 秀吉の天下統一後、木曽はその豊富な森林資源から秀吉の直轄地となり、江戸時代に入ると徳川家に引き継がれ、尾張藩の直轄地となりましたが、厳しい山林保護政策などは地元の住民の生活を圧迫しました。
明治維新以後、それまで街道沿いの宿場町として栄えた木曽は西筑摩郡となり、各地に製糸工場が造られ、主要産業となっていきます。森林資源も森林鉄道の導入、水力を利用した木工業などで近代化していきました。また明治の終わりには中央線が開通し、大正以降には大規模なダムや水力を利用した発電所が各地に造られ、昭和に入ると郡内にもさまざまな工場が造られるようになりました。
戦後、昭和43年には、西筑摩郡は、古くからの呼び名である「木曽」にちなんで木曽郡に改名されました。
 現在では、社会情勢の変化で、従来の産業に加えて、観光や地域の特性を活かした地場産業などが重要な位置を占めるようになってきています。


 位置及び地勢
 木曽路(木曽郡)は、長野県の西南部に位置し、直線で南北63キロ、東西52キロに広がり、東に中央アルプス木曽駒ヶ岳(2,956m)と西に霊峰木曽御嶽山(3,067m)に挟まれた山岳地帯で、中央を木曽川と奈良井川が流れ、それに沿って国道19号(旧中山道)が貫いています。面積は、1,688.75平方キロ、そのうち、山林原野が占める面積が約84%、宅地は1%弱。標高差の著しい山村地帯で寒暖の差も大きく気候の違いは南北では約1か月近くにもなります。
3つの町と9つの村の、11町村で構成されています。


 人口及び産業
 全盛期の昭和30年代には7万人近い人口がありましたが、都市部などへの人口の流出が進んで年々減少し、現在では約4万3千人となっています。老齢化率も高く、65歳以上のお年寄りが総人口の25%となっています。
 主な産業としては林業、木材木工業、農業、建設業、電気・機械・金属工業、そして観光業が挙げられます。近年、観光関連の産業が大きな比重を占めています。


(背景は楢川村にある「是より南木曽路」の碑)

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