木曽の伝説


寝覚の床の浦島太郎伝説
 むかし丹後の国、竹野郡浦島というところに、水江という領主が住んでいました。この浦島の息子に太郎という少年がいました。ある日小船で沖に釣りにでた太郎は、大きな白亀を釣り上げました。お供の者が擢を振り上げて亀をなぐり殺そうとしたので、太郎はそれを止めて亀を海へ放してやりました。さっぱり魚が釣れないので、浜へ戻った太郎が家に帰ろうとしているところへ、一人の美しい少女がどこからともなく近づいてきて「私は先程の亀ですが、生命を助けていただいてありがとう。」と礼をのべ、太郎を常世の国龍宮城へ案内しました。
 龍宮には、龍王を始め、乙姫様が太郎の来るのを待っていて、「姫を助けてもらったお礼にゆっくり遊んでいくように。」と念のこもった挨拶をし、もてなしてくれました。
 月日の経つのも忘れて遊んでいた太郎は、ある日鶏の声を聞き、忘れていた故郷を思い出すと、急に家に帰りたくなり、もう矢も盾もたまらず、龍王にいとまごいを申し出ました。龍王は「家に帰って、故郷がいやになったら再び戻ってくるように、貴男の信心している弁才天の尊像と、万宝神書を一巻差し上げましょう。いかなることがあっても開いてはいけない玉手箱というものもあげましょう。」といって龍王は贈り物を渡してくれました。
 太郎は喜んで、龍王の貸してくれた龍馬にまたがって、故郷に帰ってきました。
 太郎の思うには、たった2、3年のことだから、父母も達者で暮らしているだろうし、近所の人たちも元気で働いているだろうと、家に帰ってみると、見知らぬ人ばかりで、浦島太郎といえば3百年ほど昔に沖に釣りに出て帰らぬ人だろうと近所の人が語りました。

寝覚の床 太郎はすっかり驚いて、万宝神書を開いて見ると、それには飛行の術をはじめ、長寿の薬法などいろいろ書かれていました。太郎はこれを読むと、足にまかせて諸国の旅に出ました。

 たまたま木曽路の寝覚の床に来た太郎は、付近の美しい風景がすっかり気に入って、寝覚の里に住み、毎日寝覚の床に出かけて好きな釣りを楽しんでいました。
 ある日、太郎は里の翁に昔の思い出話をしていて、話のついでに忘れていた玉手箱を取り出して開いて見ました。すると中から紫の煙が立ち昇って、太郎の顔にふれると、たちまち顔色が衰えて、3百歳の翁になってしまいました。
 太郎は、近くの池に姿を写してみてたいそう驚きました。それを見ていた人々も共に驚きました。それ以後この池を姿見の池と呼ぶようになったそうです。
 太郎はその後人々に霊薬を授けていましたが、天慶年間にどこへともなく立ち去ってしまいました。
 里人が太郎の立ち去った跡へ行ってみると、弁才天の像が寝覚の床の岩の上に残されていました。これを祠に祀って寺を建立したのが、現在の臨川寺だということです。
 ここには現在でも姿見の池や浦島太郎の物だと伝えられている釣竿などが残されています。
(写真は寝覚の床)



姫淵の伝説
 上松から赤沢自然休養林へ行く途中の小川に「姫淵」という美しい淵と、「姫宮」という祠があり、ここには昔からあるお姫様の哀しい伝説が語り伝えられています。
 今から八百年近く前の平安末期、平氏と源氏が争っていたころ、宇治の戦いで敗れ、逃げ落ちた父をさがして、自らも追っ手に追われながら、京都から美濃を経て木曽路へ旅してきた一人の高貴なお姫様がいました。
 おりからの木曽路は、新緑につつまれた田植えの頃で、お姫様は木曽川のほとりを杖にすがりながら、山を渡る風にも、ふと鳴きだす山鳩の声にも追っ手ではあるまいかとおびえながら歩いていました。
 島という部落にたどりついたところで、追っ手にみつかりそうになってしまったお姫様は、あたり一面におい茂る麻畑に身をかくそうとしましたが、村人たちは後難を恐れてかくしてはくれませんでした。
 仕方なく痛む足をひきずりながら最中という部落まで逃げのびたお姫様は、今度は親切な村人に麻畑の中にかくしてもらい、追っ手をまくことができました。

姫淵 追っ手が去ると、お姫様は、村人に厚くお礼をのべて、小川沿いの山道を西へ急ぎました。

 高倉の峠を越える頃には、道が次第に細くなり、夕闇も迫ってきて、とうとう道は途絶えてしまい、やっと谷川の淵の傍らにたどりつきました。
 その時、峠の方から再び追っ手の声や馬のひづめの音が聞こえてきました。
 逃れるすべがないと悟ったお姫様は、せめてもの今生の思い出にと、逃げてくる途中で見た、京都ではあまり見かけなかった田植え風景を思い出し、付近に生えている草を手に取って淵の岩の上で田植え歌を歌いながら、田植えのまねをはじめました。
 そして、その美しい声のこだまがまだ消えぬうちに、お姫様は清らかな淵に身を投げてしまいました。
 その後この淵は「姫淵」と呼ばれるようになり、山々が茜色に染まる夕暮時にこの淵のあたりを通ると、淵の底に姫の姿が見えることがあったので、村人はこの淵のほとりに祠を立て、姫の霊を祀ったということでこの祠は「姫宮」と呼ばれています。また、姫をかくまわなかった島の部落では、その後麻が育たなくなったということです。
 今でも、姫宮では毎年十月十五日に、山仕事の安全を祈願する祭礼が行われています。
(写真は姫淵)



宗助幸助(水無神社とみこしまくりのいわれ)

 昔、飛騨の国の一の宮水無(すいむ)神社の近くで戦乱が起こり、神社もまたその戦火に巻き込まれようとしていました。
 ちょうどその時、この地へ木曽から杣仕事(そましごと:木を切る仕事)に来ていた宗助と幸助の二人の者が相談して、「こみこしまくりのままでは、お宮は一体どうなることだろう。あまりにもったいないことだから、俺たちの故郷、木曽の地へ神社を分けていただこう。敵もまさか他領の木曽までは追っては来まい。」と、信仰心の厚い二人はさっそく同志を集め、木曽へ出発の用意を始めました。
 幸い神主も戦火を避けることに同意してくれたので、一行はみこしを担いでこっそりと木曽へ向かって出発しました。
 いくつかの峠や谷川を渡り、ちょうど木曽と飛騨の国境の峠までさしかかったとき、追っ手が追い付いてきました。他領へ取り逃がしてはならじと、峠の頂きでみこしの奪い合いが始まりました。そして、もみ合いをしているうちに、みこしが地面に落ちころがってしまいました。
 こうなってはみこしが壊れても仕方がない、このまま転がして逃げようと、「宗助」「幸助」「宗助」「幸助」と掛け声をかけ合いながら、峠を木曽側へ向かってみこしを転がし落して逃げ出しました。すると、追っ手もとうとうあきらめて、引き揚げていってしまいました。
 こうしてみこしを持ち帰ると、故郷の伊谷(いや:木曽福島町伊谷)の地へ社殿を建てて、お祀りすることができました。
 これが、木曽福島町の水無神社のいわれで、今でも夏祭りには、毎年新しくおみこしを作って、町中を転がして壊してしまうという「みこしまくり」が行われています。また、この時の事をしのんでみこしを転がすときは「宗助」「幸助」と勇ましく掛け声をかけるのだと伝えられています。
(写真は水無神社例祭でのみこしまくりの縦まくり)


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