木曽路ミニ知識 ・百草(ひゃくそう)って何? 御嶽登山のみやげでは売上げトップの古くから伝わる腹薬で、ダラスケともいいます。オウバク(キハダ)、ゲンノショウコ、センブリなどの生薬を配合したもので、御嶽信仰とともに有名になりました。黒い板状になっていて砕いて服用しますが、最近は飲みやすい丸薬や、顆粒状のものが好まれています。 ・そば切り発祥の地は木曽だった!? 『そば』というのは、今ではポピュラーな食べ物ですが、江戸時代の始め頃までは今のような『蕎麦切り』という形ではなく、もっぱら『そばがき』にして食べていたとの事です。 『蕎麦切り』という言葉が、文献に登場するのは、この木曽が初めてでした。 木曽郡大桑村にある、『定勝寺』という寺に残された天正二年(1574年)の仏殿修理の際の記録の中に、「振舞ソハキリ金永」という記述があり、金永という人が「ソハキリ」を修理している人々に振る舞ったということが分かります。 現在、蕎麦切りという語句の初出は、この定勝寺の文書が最古のものであり、新たな発見がないかぎり『蕎麦切り』、つまり現在の『そば』の発祥の地は、木曽郡大桑村だと言えます。 また、食べ方の記述がある最古の文書は『山中日録』という旅行記で、尾張藩主徳川義直に儒学者として仕えた堀杏庵が、寛永十三年(1636年)四月に日光東照宮の造営完成の式典に参加する義直に同行し、中山道を旅したときに書かれたものです。 それによると、 「楢井(奈良井)を通過し贄川宿に着いた。その夜、義直候は、蕎麦切りを召し上がり、自分たちも相伴に預かった。それは冷やしそうめんのようで、大根の絞り汁にたれ味噌を少々加え味を整え、鰹節の粉や葱やニラを薬味として添え、その汁で食べるものである。それは、大いに美味だったので、おおいに食べたが、中にはあまりのおいしさに誘われ、数十椀も食べた者もいた程だった。」 とあります。 このことから、当時の蕎麦切りのつけ汁がどのようなものだったかが分かり、料理専門書としては最も古いといわれている『料理物語』より7年も早く、しかも詳しく記述されていることが分かります。 これら二つの文献から、現時点では『蕎麦切り』『食べ方』の最古の文献の記述は、この木曽地方にあり、したがって木曽地方は『蕎麦切り発祥の地』と言えるでしょう。 |
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