木曽路ミニ知識

・木曽の広さって感覚的にはどのくらい?
 木曽郡の面積(1,688.75平方km)は、香川県(1,860.89平方km)に近い広さがあります。

・中「山」道?、中「仙」道?どっちが正しい?
 はじめ中山道は「中仙道」と書いていましたが、享保元年(1716)の「五街道宿御取扱秘書」によって「仙」から「山」に改められました。ですから公式には、「中山道」が正解です。

・木曽ある日本三奇橋、日本三大美林とは?
  日本三奇橋  … 木曽の棧  (上松町)
              甲斐の猿橋 (山梨県)
              岩国の錦帯橋(山口県)
  日本三大美林 … 木曽ひのき (木曽地域)
              津軽ヒバ  (青森県)
              秋田スギ  (秋田県)
 ※日本三大〇〇には、地域によって異説があります。

・木曽を舞台にした小説はあるの?
 以下に主なものをあげます。
  島崎藤村 … 『夜明け前』、『家』など(舞台:南木曽町、木曽福島町)
  菊池寛  … 『恩讐の彼方に』    ( 〃 :楢川村・木祖村)
  川端康成 … 『日雀(ひがら)』   ( 〃 :上松町)
  吉川英治 … 『宮本武蔵』      ( 〃 :南木曽町)

・木曽義仲と巴御前の伝説って本当?
 木曽義仲は実在の人物ですが、木曽生まれで義仲の恋人と言われる「巴」は、北陸の戦果を語る瞽女(ごぜ)だったという説もあり、その時代に馬に乗って戦う女武者が果たして存在したかを考えても、実在の人物かどうかは疑問の残るところです。
 また、木曽の文化人で義仲に献身したと言われる大覚坊覚明も、流浪の書記僧だったという説もあり、いずれにしても後世の人により作られた数々のフィクションの一つなのではないでしょうか。
 木曽を含めた義仲ゆかりの地の人々が、義仲を英雄視する熱い想いは、東北の人が源義経に向ける想いと共通するものがあります。日本人は美しい伝説が好きなのでしょう。
 なお、牛の角に松明を付けて走らせたという倶利迦羅峠の戦など、義仲に関する伝説の多くのエピソードは、司馬遷が書いた『史記』の焼き直しが多ようです。
                                                   (訂正指導:『彗星』さん)


・百草(ひゃくそう)って何?
 御嶽登山のみやげでは売上げトップの古くから伝わる腹薬で、ダラスケともいいます。オウバク(キハダ)、ゲンノショウコ、センブリなどの生薬を配合したもので、御嶽信仰とともに有名になりました。黒い板状になっていて砕いて服用しますが、最近は飲みやすい丸薬や、顆粒状のものが好まれています。

・そば切り発祥の地は木曽だった!?
 『そば』というのは、今ではポピュラーな食べ物ですが、江戸時代の始め頃までは今のような『蕎麦切り』という形ではなく、もっぱら『そばがき』にして食べていたとの事です。
 『蕎麦切り』という言葉が、文献に登場するのは、この木曽が初めてでした。
 木曽郡大桑村にある、『定勝寺』という寺に残された天正二年(1574年)の仏殿修理の際の記録の中に、「振舞ソハキリ金永」という記述があり、金永という人が「ソハキリ」を修理している人々に振る舞ったということが分かります。
 現在、蕎麦切りという語句の初出は、この定勝寺の文書が最古のものであり、新たな発見がないかぎり『蕎麦切り』、つまり現在の『そば』の発祥の地は、木曽郡大桑村だと言えます。
 また、食べ方の記述がある最古の文書は『山中日録』という旅行記で、尾張藩主徳川義直に儒学者として仕えた堀杏庵が、寛永十三年(1636年)四月に日光東照宮の造営完成の式典に参加する義直に同行し、中山道を旅したときに書かれたものです。
 それによると、
「楢井(奈良井)を通過し贄川宿に着いた。その夜、義直候は、蕎麦切りを召し上がり、自分たちも相伴に預かった。それは冷やしそうめんのようで、大根の絞り汁にたれ味噌を少々加え味を整え、鰹節の粉や葱やニラを薬味として添え、その汁で食べるものである。それは、大いに美味だったので、おおいに食べたが、中にはあまりのおいしさに誘われ、数十椀も食べた者もいた程だった。」
 とあります。
 このことから、当時の蕎麦切りのつけ汁がどのようなものだったかが分かり、料理専門書としては最も古いといわれている『料理物語』より7年も早く、しかも詳しく記述されていることが分かります。
 これら二つの文献から、現時点では『蕎麦切り』『食べ方』の最古の文献の記述は、この木曽地方にあり、したがって木曽地方は『蕎麦切り発祥の地』と言えるでしょう。


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