楢川村大発見

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〈見どころ〉

京都と江戸を結ぶ中山道六九次の三十四番目の宿場町・・奈良井宿、約1キロメートルにわたる
町並みが今に残っています。自然と調和した宿場町で時代を超えた時をお過ごし下さい。


冷涼多湿な気候は漆器の生産に適しており600年の伝統ある木曽漆器が今に受け継がれています。
現在
100件以上の漆器店・工房があります。ゆっくりとお店巡りをお楽しみ下さい。


「是より南 木曽路」の碑
表書きに「乙部泉三郎」の名が記してある。乙部氏は明示30年東京生まれ、東大
の文学部を卒業し、満州に渡り図書館司書、館長を経て帰国し、長野図書館長を
務めた。
碑面裏面の寄付者桜沢の百瀬氏が友人であったことから表書きを依頼し
たという。
尚、山口村馬籠宿には「是より北 木曽路」の碑がありこれは島崎藤
村の書である。
昭和15年建立のこの碑は、現在国道19号線の脇、しだれ桜の根元
のあるが、実は中山道と牛首峠への分かれ道にあったものを移したものである。


桜沢
木曽路の北の出入り口に当たる。贄川から桜沢までは、道中記に「馬に乗って通るには、と
てもこわい道である」と記されており難所とされていた道筋でもあった。江戸方向本山宿と
京方向贄川宿の「間の宿」として賑わった。


贄川宿
贄川の地名は近世文書には熱川とも書かれていて、贄川駅から温泉が沸き出た為、
熱川と呼んだといわれているが、温泉が枯渇したため地元民は「ねえがわ」と濁っ
て呼び合ったそうだが贄川と呼ばれるようになったのは、麻衣廼神社の親社である
諏訪神社の神事にこの地で捕らえた鯉・鱒を供進したのに由来するという説があり、
いつ頃か年代は不詳である。
宿場の入り口に贄川関所があり、創設されたのは古く戦国時
代に木曽義仲七代の孫家村が四男四郎家光に守らせたのが始まりとされている。この地点から
四町六間(約4
50m)の町並みを形成していたが、現在は度重なる火災で往時の面影を残すも
のは少ない。


贄川関所
贄川関所の歴史は古く、豊臣秀吉の時代、木曽材木の監視のため今の場所と南の
妻籠に番所が設置された。関が原の戦いの後、木曽福島に幕府の関所が置かれ
「出女と入鉄砲」が改められるようになったが、飛騨街道や権兵衛街道経由の人々
を改めるのに、また善光寺街道の人々の改めに副としての贄川関所が必要となり
幕府の機関へ組み込まれるようになった。
この他尾張藩の統制物資である木曽の
檜を使った曲げ物や漆器、密移出にも目を光らせ、白木改めを行い尾張藩の北の
番所として役割を果たした。
明治2年には全国に関所廃止令が出され、尾張藩へ
引き上げられた。昭和
51年、地元民の熱意で木曽福島関所より1年早い時期に贄
川村詩の古関図により復元され現在に至っている。


贄川の栃の木
昭和447月13日、県の天然記念物に指定された。戦時中、農作物に被害がある
からと伐採を強制されたが、陸軍が陸地測量部の5万分の1の地図に基点として
載せてあった為、危く伐採を免れた。
樹齢300有余年、高さ32.9m、胸高周囲4.8m
根元周囲
17.6mと測定されている。


木曽漆器 木曽平沢・木曽漆器舘
木曽漆器は600年の昔から伝わる子孫祖伝の伝統技術。特に漆器店がズラリと軒を
連ねる平沢の町は漆器がさかんで、国の「伝統的工芸品産地」「重要漆器団地」の
指定を受けている。漆器には座卓、菓子皿、そば道具、重箱のほか創作漆器もあり、
さまざまな製品が生み出されている。
平成136月オープンの木曽漆器舘では、漆
の採取過程、採取道具の変遷、漆器の工程、伝統工芸士の作品を見ることができる。

本年度、35回を数える「木曽漆器祭・宿場祭」は毎年6月の第一金・土・日曜日に開催される。


木曽の大橋
ふるさと創生事業の一環として平成
33月誕生した。この橋は総檜造りで、岩国城
の錦帯橋を参考に、木造アーチ歩道橋として、橋長33m、巾員
5,9mの宮大工が語
れる程の技術を用いているという夢の大橋。
木曽ならではの贅沢な造りで、橋脚が
ない木製の橋としては日本一の長さを誇る。


奈良井宿

中仙道十一宿のうち、もっとも標高の高いところに位置するのが、この宿場である。
(海抜
935m)分水嶺の鳥居峠をすぐ見上げる宿場町でもある。中仙道きっての難所
といわれた鳥居峠(海抜
1299m)をひかえ、伊那と木曽を結ぶ権兵衛峠(海抜1522m
にも通じていたことから、古来峠越えに備え、奈良井で一夜をとる旅人が多かった。
このため‘奈良井千件‘ともいわれる程の繁栄を誇っていた。
南から上町、中町、下
町と分かれ、上町と中町の境は鍵の手があり、中町と下町の境は横水という沢で区切
られている。
宿の創設は近世文書「西筑摩郡誌」に「天文元年(1532年)木曽義在、
奈良井に専念寺を建つ、同
2年義在、木曽に宿駅を定む」とある。また永禄11年(1568年)
相州文書に宿駅として「奈良井」の名がでている。
江戸時代になって、中山道六十九次の宿
のひとつとして整備された。


鎮神社
鎮神社は、奈良井宿の鎮守で初め中原兼遠が鳥居峠に祀ったものであったが、天正10
1583年)木曽義昌と武田勝頼の合戦で焼失してしまった。後に、奈良井義高が(奈良
井城主)現在の地に移したと伝えられている。
社蔵記録「社名記」によれば、元和4
1618年)奈良井宿に‘すくみ‘という難病が流行したので、翌5年下総国の香取神社か
ら「経津主命」を迎え、
622日に祭祝が始められたという。鎮神社の祭礼は、毎年811
12日に行われる。


徳利屋
昭和15年まで旅籠を営んでいた。江戸時代には脇本陣を務め、明治時代には島崎藤村もこ
こで取材をしたり、泉鏡花は「眉かくしの霊」をここで書いたという。他にも幸田露伴、
坪内逍遥、岡本経堂、正岡子規ら著名人が泊まった高級旅籠。磨き抜かれた千本格子が美
しい建物で、現在は郷土舘として当時の文書や調度品が展示され、食事処、茶房となって
いる。


上問屋資料館
宿の問屋を務めてきた手塚家を開放、古文書や家宝を展示している。江戸時代の漆器、塗り櫛などのほ
か、宿場図、寛永年間の宗門帳など数々の展示品が多い。手塚家は天保
3年の火災で焼失、同11年に現
在の家屋を新築した。


資料館中村邸
櫛問屋中村家の屋敷を一般に公開。京都の町屋造りに影響を受けた造りで、間口が狭く奥に深い出梁造
りは奈良井宿の典型的なスタイル。土間、吹き抜けの囲炉裏部屋がそのままの姿で残されている。


歴史民俗資料館
奈良井の古地図や古文書など宿場時代の資料を展示。宿場内だけで使われていた通貨「宿札」や藤村の
「初恋」に登場する花櫛なども見られる。


奈良井5ケ寺

専念寺(浄土真宗)
寺の開基は飛騨白川昭蓮寺が基で、創建時、天文2年に奈良井に移ってきたと伝えられる。

法然寺(浄土宗)
寺は、栂尾明恵上人の開山で、初め天台宗に属し、後浄土宗に改宗した。

大宝寺(臨済宗)
寺伝によると、天正
10年(1582年)奈良井義高合戦開山、大安和尚を迎えて建立したという。
本尊は釈迦之尊である(公伝寺といった)万治元年(
1658年)に木曽代官、山村良富(4代目)
が本堂を建て、大宝寺と改めた。

長泉寺(曹洞宗)
寺伝によれば、貞治
5年(1366年)元章希本和尚の創立とされる。現在の堂宇は慶応2
1866年)に建立されたものである。このお寺はお茶壷道中の本陣と知られ、茶壷の1つ
が残されている。

浄龍寺(浄土真宗)
同寺の寿上によれば、木曽義仲追討の後、落合五郎兼行の嫡男兼行が萱ヶ平に玄興寺を建立
したのが基で、正安
2年(1300年)兼行の孫の玄徳が草庵を移したという。天保2年(1645年)
東本願寺宣如聖人より阿弥陀像を賜り、浄龍寺と改めたと伝えられる。


八幡神社と二百地蔵
祭神は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)で下町約200戸が氏子となっている。石段を登
って行くと、途中右側に中仙道古道の杉並木が見える。石段を登りきると向かって右が本
殿、左が舞台である。本殿は江戸末期に建立されたもので、一間社流れ造り(いっけんしゃ
ながれづくり)で舞台の中にある。
この社は奈良井義高の館の北東にあたり、鬼門除けの
守護神として崇敬された。
この神社の北に「二百地蔵」がある。実際の数は194体と言われる。い
つごろ造られたのかは不明だが、地蔵や千手観音・馬頭観音・不動明神・・さまざまな石仏がまつられ
ている。この他
23夜塔、徳本上人の塔が林立している。


権兵衛峠
元禄9年(1696年)に木曽日義村に住む古畑権兵衛が木曽十一宿の問屋と力を合わせ伊那
谷と木曽谷を結ぶ鍋掛峠の難所を、馬も通れる道に改良したことからこの名でよばれるよ
うになった。
伊那谷と木曽谷との間には木曽山脈が立ちはだかり、「伊那温知集」には鍋
掛峠が「信濃第一の難所」と記されているほどである。
また馬の背に米をつけ、峠道を往来す
る馬子たちが歌った「おんたけやま」は全国に知られる伊那節であり欠かすことのできない郷土の唄と
なっている。


鳥居峠
奈良井宿と薮原宿を結ぶ中山道最大の難所。明応年間(14921500年)松本の小笠原氏
との戦いで木曽義元はこの頂上に鳥居を建て、御岳権現に戦勝を祈願したと言われる。

現在は石畳も復元され遊歩道となっている。



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